新しいPCを買って動かしてみたけれど、もうあまり感動もなく。この感覚は機種変更したiPhoneに似ている。ただ使えれば良いという期待値で、見てくれも特に変わっていない。そんなふうにして、ここにあったパソコンをぼんやり動かしてみても、これからのパソコンに期待されるものは何も思い浮かばなかった。エーアイがあるから使わされているという感じでもある。あとはフリマアプリを使ったりもする。無駄なものばかりを買わされたものだった。存在するような実体を介さないと、時間を費やしている意味が感じられないからだろう。僕は時々そんなことを考えた。僕の存在しないイリュージョンの世界で。知ることで、どんなものもその所在が明らかにされる。ただ自分がどこにいるのかはうかがい知ることはできないのだが。
2022年は何をしていたのかと、時々思うのだ。そして、2021年は。思えばそれは慌ただしくもあまりにも早すぎる時間でもあった気がさせられた。誰にもどうにもできなかった時代であるというふうにも思い返すことができた。年末のミーティングでけっこうひどい話をされたこともあった。思い返せば、ほとんど仕事がなかった年だったかもしれない。だれもそんなことは口にすることもなく、時は流れ出していたのだ。不意に川面を見ると、よく浄化されてはいたが、不気味なほどにそれは澄んだ川だった。この状況を、変えようとは誰も言わないのだが、気にするものの少なくなった今の時の流れは加速しているように思う。これはかつて体験したことのない流れでもある。
そして5月も終わろうとしている。立ち止まった誰のことも、そこでは待たれることもなく。新しいPCは何も感動もなかった。車も多分、買っても同じようなものだろう。どんな国でどんなものを食べても、欧米化したような味のするコーヒーやパンもゴメンだった。野菜も肉もクセのない味の品種のものになったものだった。このままではいけないと、誰かが言うべきだと思っているけれど。