夏のカケラを探して

何の変哲もない、団地の道を歩く。紅葉のまだ進んでいない道は、ただ、人気のない、殺風景な景色が続いているだけだった。僕は昔働いていた自動車の設備関連の業務に詳しいので、中を裏から少しだけ覗き込むと、20年前から変わっていない彼らのしている仕事はEVによって変わっていくのだろうと思った。いや、変わらなければならないのだ。そのようなことを考えていると、川辺で釣りをしている人がいた。バスはもう、いないということも知らずに。僕の子供の頃は、たしかに釣れない日が珍しいぐらいにいたけれど。トンボみたいにいなくなった存在を、懐かしいと思う人も少ないのだろう。波紋だけが残っていた川面に、修理したCDプレーヤーのことを思い出していた。それを修理する九州の人がいなくなったら、どうすればいいのかと。ざっと4万かかった修理代だったが、古いアイフォンが買えそうな値段ではある。前と比べてトキメキの少なくなったアイフォン。僕は古本屋に入って、目ぼしいものも見つけられずにそこを出ると、引きかえした。下落基調の鮮明になった株を思い出して、この先投資を続けるべきなのかを考えては、やめておいたほうが良いかもしれないと、そうすることを否定しては、また今がチャンスなのだというふうに思い直していると、道端に咲いていた花を見かけた。この下落基調は長引くという話だが一旦は上がるような場面も予想された。長期金利が落ち着いてきた時にそのようなことは起こりうるが今はまだ金利は全く落ち着いておらず高値を維持しているので落ち着くところを待ちたいがいつになるのかはわからなかった。

一つの安全策としてドル円の為替が落ちてきたところを狙うという方法が考えられた。今はまだ150円付近で、トレードするには向いていないので、時期を改めるべきで、ここは待ちだった。何をするにも、簡単にはいきそうもないということを感じさせられている、例えば、今は販売されていない魅力のない商品を探している時みたいに、生きることに、疲れを覚えさせられるような冬の日のように思えた。僕は自分であることに疲れたのだ。毎日、自分を語ろうとすることに、どこまでも続いていくように見えた田んぼや、スクラップ工場に。すべてが終わったかのようにして。