無くした姿で
生きているのだということを確かめているようにして、日記を書いている気がする。ペンを、確かなのは、持っていることだけで、あとは不確かだった。僕は今は雨の音を遠くのものとしてではなく、聞いている、パンクしていた自転車は直したので、昨夜駐輪場にいれてきたのだ。音楽と、僕の部屋には、疲れに似た聞こえてくる何か。
電柱の下に落ちていた街灯の光。人の、その下を歩いている横を、電車が姿もなくして走っていると、スーパーに続いていた道みたいにどこまでもまっすぐに続いていくみたいに、今日も昔のことを一人で思いだしていたのだと思う。学校に歩いていた道の途中に瓦の積み重ねられていた家は、それを使う仕事をしていた人の家だったのだろう、外は今日も暑く、部屋の中にいると時間の経過を早く思わされてしまう。
今日も姿を無くしたように生きていた。感じ取っていることだけが真実であるかのように思える、色々な街の場所の、どんな景色にいても、イリノイでもアメリカでもそうなのだろう。僕はこうしているということで今日も、ラジオから聞こえてくるダンスミュージックによって懐かしい記憶が頭に蘇っている。