画用紙の外の街で

日々、外を歩くとカップルの群れ。憂鬱な、大学時代を思い出させられるというほどに。僕は食料を買いに急いだ。肉が、冷蔵庫で欠乏していた。野菜ばかりが、冷蔵庫の中にはあるのである。僕は道を急いだのだ。家に帰って、でも、特にすることはなかったのだが。子供の頃は、でも、何を、僕は見ていたのだろう。遠くに、そして、点々と街灯の光が散らばる。それは去年、どこかの美術展で見かけたことのある光みたいに見えたのだった。あの空き地には、今も、同じ遊具があるのかもしれない。パソコンの画面の隅を見ていた。クラブイベントの、知らない人々。僕は、そして、スーパーに入った。イカや魚を、買う気もないのに物色していた。僕が働いていた街に出入りしていた風俗嬢の背中。僕の右手には、まだ掴むことができたものが、少しは残っていた気がする。そして、八百屋で、トマトを僕は買った。

僕は何かを考えていたのだ。僕はこの国がこの先どうなるのかということを、遠い街に見える光を見つめながら予想していたのである。日本はコロナウイルスの驚異を脱したかのように見えるが、事態は簡単ではない。都市が都市であればあるほどその驚異から逃れることはできないし、安全であることを肯定することは今後はできないのである。田舎のほうが絶対的に安全であり、それは本来人間にとっては自然な姿であるはずだった。コロナウイルスの拡散について、考えることの無意味さ。子供の落書きに似て、画用紙の外を意識することはない。人は何も思わないだろう、ただ、昔の思い出の中にいたほうが、現実を見つめることよりも心の中はいつも満たされた。海を漂い続けながら、海流にまみれて移動したほうが良い漁場に着くと、すこしだけナマコである彼らが知っていたように。