サンスイ、コロナウイルス、ハーモニー

ぼやけていくような、一日。僕の手は、特にこれといったなにもしていなかった。そして、僕のいる窓から、外をぼんやりと見ていた。春は終わり、夏が来ようとしていることを、僕は、感じとる。風や、空気のようなものに。そして、ただ、とりとめのない思いで買い物に出かけても、僕の足はそこに立ち止まらせられることもなく。サンスイのプリメインアンプは、コンタクトスプレーで復活したかのように思われた。このアンプ、パワーアンプダイレクト出力という出力が端子としてついていて、プリ部を回避できたのだが、あまり、それは鑑賞には適さないような音だった。スイッチは大丈夫だったが、回すと、ガリが出て、バランスの調整も不安定で、絶望的だった。このアンプの音はJBLにも適していて、好きだったが‥。低い音も暴力的に出すぎるほどで、常に小さく、絞っている。そんなことを考えながら外を歩くと、カップルの群れが現れた。明らかに、普段からすると見慣れないような頻度でだ。埼玉などを歩くと、このような光景をいつでもどこでも見ることができるというわけだが。そういった人々をここにも、あそこにも見ているのは、悲しくて、少し、僕は憂鬱だった。でも、いつのまにかよく舗装されていた道だった。靴下の露出しているデザインのスニーカーを履いている女の子を、そこで見かけた。

コロナウイルスがアメリカで猛威を奮っている。アメリカだけではなく、シンガポールでも。格差社会による、人間の鬱憤が露呈されたかのような、その感染者数。クリーンな社会がそこにあったのかどうかというリトマス紙でつけられたかのような結果が、そこにははっきりと見られる。ここ日本でもその結果は露呈されて当然だろう。そういった過剰な労働を強いられている人々は、昔に比べて明らかに増加している。都市部であればあるほど、それは、顕著化するのである。グラフを見ればわかるように、欧米の国のみならず、日本も同じように肩を並べた比較対象国なのだ。しかし、中国やベトナムではなぜ、その状態が悪化しないのか。僕はその国を訪れたことがあるから言えるが、人の距離が安全に保たれていることからわかるように、社会的な格差がそこまでないからである。人々の暮らしは一部を除いては平均的であり、スラムのような場所があまりないのである。コロナウイルスは、小さな生き物のように、世界の経済のあり方に対して、明らかな声を発している。独善的で急進的な社会発展は、このような悲劇を招くのだと。