
sが美術展のチケットを手に入れたというので、出向いたが、あまり、面白くなかった。僕はそれですぐに帰ってきたのだ。しかし気づけば最近は、ほとんどスポーツをしているかのような日々だった。僕は事物を見たり鑑賞しようなどとは思わないのだ。しかし、今はスポーツではないが、コーディングで悩んでいる。壁にぶつかったり、時々地道な作業が必要になったりと建築のようで大変だ。そういった時は、考える以前に悩まないということが第一。それはやってから考えるというよりも、とにかく誰よりも早く、やりつづけるということ。そして、時を忘れて、キーを打つということ。考えたり反省したりということは、ほとんどいらないのだ。
そして、バンコクでの最後の日が思い出される。最後の金をはたこうとしていた僕は、二人のおばさんから念入りにマッサージをされていた。でも、僕的には強烈な足つぼを期待していた。タイのマッサージというと、日本での、素人のやるレベルと言っても過言ではない。しかし、終わるとなぜかスッキリした。入ろうとしていたインド人らしき人々の集団が、ロビーの方に戻っていった。女性陣は英語の曲にあわせて歌っていた。タイ人にしても、日本人にしても、考えていることはよくわからない。でも、それが終わって、金を払う時には、チップを笑顔でせがまれてしまった。もっと出しておけばよかったかと思うが、そういう習慣は欧米のようには元々本では、ないらしかった。
僕は色々なものに見慣れたり飽きたりして生きていることがときどきつまらない。すでに成田空港の第二ターミナルに訪れても、面白くはなかった。本の中にはそれはあるのかと思うが人の人生や思い描いていることというのは現実よりも時々面白さがあるのである。自分とは違う年齢でその時代を生きた人というのは…。僕も学生の頃同時多発テロの前にNYCを訪れている。サブカルが健在で街にもTVの中にも活気が溢れていた。ソーホーとチェルシー地区で、海からの風を受け、友達とハンバーガーを食べていた僕。遠くからは、スタジオで新しい音を試みるバンドの演奏が聞こえた。それは、今は失われた感覚の風景だった。