夜からの漂流

昔のことを思い出しながら、最近はよく、目を閉じている。近所に住んでいた友達のことだとかを。そうすると、いつの間にか、夢を見ている。朝へと続く時間のどこかで、立ち止まっては、進んでいるような気がする。昔取引先の人と入ったサービスエリアで飲んだ缶コーヒーのほろ苦い味を思い出す、あの人は真面目な人だった。あの人は不真面目だった。そして今どうしているのだろう。何も、知ったところで、面白いとは思わないとは思うが。今にしてみれば、すべてが無意味だった。意味のあることは誰にも約束はされていないのかもしれない。おしなべて使われる時間と金だけが消費されていくのが世の中だ。時々、釣り糸を垂らして、魚と遊んでみる。名前の知られていない企業の株に、多額の金をつっこんでみる。そんなことはしないとしても就活の面接で訪れたことのある知らない街みたいに、カフェで時間を潰す時そこには人々の暮らしが溢れていた。すでに、駅の名前も、そこがどこだったのかすらも、今は覚えていないのだが。アメリカは中国の自動車を輸入しないらしかった。昔鉄鋼の取引で痛い目にあったかららしかった。国がバックにあると公平な競争が促進されないというが、公平な競争とは、どのようなものなのだろうかと、今のテック企業が肥大化した経済に目を向ける。しかし、答えはわからなかった。

子供の声が、昼は、公園の方から聞こえていた。この地域は線路と倉庫に挟まれた非常に狭い地域で、マンハッタンのABC地区といったところだろうか。インドネシアの先のティモール。こういったエリアは犯罪の温床になりやすい。地価が安くなる上に、人の流入が激減するからである。そんなことを、考えていた。