インフレを憂い、お花見に

大崎駅から、中目黒駅まで歩くというのが、花見のいつものコースだったが、今日はやや暑すぎたので帽子をかぶった。五反田まで来ると少し疲れてきたので不動前で帰ろうと思ったが、やはり歩き続けた。花火とは違って、花見というのは木さえあればいつでもどこでもできるので気楽だった。それに夜ではないので気分に余裕も感じられる。気楽だった。しかし多くの人がいる場所のほうが花が集中しているので、その点は似ているのかもしれない。ドトールでコーヒーを飲み、ドーナッツを、コンビニで買って歩いた。テニスをしている人を見ながら食べた。僕はアメリカの金融政策についてを考えていた。過去の歴史を、振り返ることの、重みを意識する、昨今。今のアメリカはそれを地で行く経済状況だった。


僕はそれからニトリで電球を買った。最近は、裸電球すらもLEDでできていて、同じような光を演出することに驚かされた。技術革新は止めることのほうが難しいのだろう。それをとめることは自分自身であることを否定させられるようなものなのだ。目黒方面を歩くのは久しぶりのことで、去年のいつだったかわすれたが、最後は、よく覚えていない。代々木公園のタルトを買いそびれたときの気がした。コロナ禍では、酒を飲む人は少なかったが、まだそのような傾向があるようで飲んでいる人は少なかった。あのようなことがあって、いろいろ世の中が変わってしまったように思う。米国の長期化するインフレの問題も、恐らく同じようなことに要因がある。コロナによって、人の生活様式が大きく変わってしてしまったのだ。
