近づいた夏

どうにか自転車をベランダに持ち込んで、炎天下の下でタイヤのチューブをはめ直す。子供の頃に自転車屋さんで見たことのある風景だった。彼らは、皆器用にタイヤを外すことなくチューブを補修したりといった作業をなんなくこなしていた。僕はその様子を余すことなくしっかりと見つめていたことを覚えている。大人になって、同じことを覚えていたようにやろうとしても僕は簡単にはいかなかったのだが。僕はそれで去年は一本の新品のチューブを駄目にしてしまった。今はタイヤ自体の硬さが無くなったからなのか、容易に入れることができた。僕はいつのまにか以前まではできなかったことのコツを掴んでいた。そして動画やamazonといったものはそれを可能にした。銃撃犯が銃を作ることができたように、僕は自転車整備のほとんどすべてのスキルを体得したように今では感じている、しかし真夏の、セミの声が聞こえてきそうな炎天下の下で。

僕は自転車を日の落ちた暗がりの中で走らせてみた。自転車は以前とは違って、がたつくことなくスイスイと前に進んだ。自転車のタイヤのチューブをバルブを外さずに入れていたのが問題だったようだった。ポツリポツリと、駅から、家に帰る人の姿が現れていた午後七時ごろ、僕は光を探していた。虫のように自分を思いながら。壁の色は、何を表現しているのだろうか、そして、僕の昔の記憶の持つ無意味さを。公園には人はいなかった。川は流れていた。でも、誰もいなくても思うことを明らかにすることもなく。そうであることは、いつも確かであるように思える、自分であることを心のなかで確かにしていくようにして、何もできないということだけが確かなように思えた。あきらめているわけではない。