倉庫と、時間のこと

昔のことを思いながら時々走っている。しかし、橋の向こう側に着く頃には忘れているというわけで、思っている事自体の意味が価値の無いものとして消えていく。夏のある日に立っていた浜辺の景色みたいに、それは、思えた。僕は走っていた。今日は、少しだけ風が冷たい。でも、そうであることは、3月だから冷たくはないような気にもさせられたのだが。それとも、体が疲れているからなのかとも思ったが、十分な休息によって、足は軽く、眠気すらも覚えてはいなかった。会社名の入った看板を手直ししていた倉庫がどうなっていたのかは、見るのを忘れていた。この間は、足場を組んでいるようだった。少しだけ、でこぼこした道を通り抜ける時、ここがベトナムでなくて良かったと思う。そもそもそこでランニングしているような人間を見たことはなかった。田んぼの広がる、日本と良く似ていた景色だった。中国もそうなのかもしれないが、タイはパイナップル畑の記憶が濃い。

僕は年明けから、何をしてきたのかと思う。時間の進みは早かった。来年まで待てと言われても、長くは感じられないほどに、早かったのである。僕は、何もすることはないのだろうと思う。ただ、何かをするというのはどういうことなのか、わかる人間はいない気がする。流れる時間の中で、富が行く人には行くし、いかない人はいかないのだろう。そういったことを考えること自体、無意味な発想だとは、気づかされていた。多くのガスや石炭といったエネルギーは電気を作るために消費されている。そう考えると、原発というのは人間の活動にとっては、必要なもののように思える。ガソリンや、水といったものが生み出す力を圧倒的に超えた動力としての、原子力。その力を有効に使わない手はないような気もする。原子力は、僕の中では超効率的な電気エネルギーに近いイメージがする。節電を優先する方が安全なのかもしれないが。