ウクライナの番組を見ていると、地震のニュースになって、途中で終わってしまった。番組ではロシアの兵隊の忠誠度の低さが指摘されていたが、あのような士気の低さで戦争を続けていられる事自体が不思議でならない。そう思いながら、この戦争が普通の戦争のように思えない感覚がする理由についてを、僕は考えていた。湾岸戦争でさえ、それは戦争であると、僕は感じられたのだが。戦闘機やロケット射撃による攻撃が無いからかもしれない。振り返ると、アメリカ以外の国の行う大々的な戦争を見るのは初めてだった。しかもロシアとウクライナである。第二次大戦を思い起こさせるような、国と国の戦争。今であっても、戦争のあり方は変わらず、市民に犠牲者が出ている。共産主義と民主主義の戦いという構図も、変わっていない。このふたつの間ではなぜ諍いが生じてしまうのだろうか。振り返ると、やはり、どちらも時間の経過とともに経済的に成長してくると起きる戦いなのだということが理解できるのだ。僕はどちらが正しいと言うふうには思わないのだが、この戦争は銃撃事件に似て暴力が別の真実をあぶり出す可能性を否定できない気がしている。ロシアという国家が多大な犠牲を払ってまで初めた戦争の意味とは。私たちは彼らが単なる敵だとみなすことなく、様々な角度から考える必要があるのではないだろうか。
午後は晴れだと思っていたら、雪が降り始めていた。手袋をしようとは思わないほどまでには、寒さは緩んで来ている気がしたが、灯油を汲みに行ってきた。通りには相変わらず、車が溢れていた。遠くの信号が赤になったのを見計らって、向こう側に渡った。街は、閉じていた店も開きだしていた。特に居酒屋が、引っ越してきた当初は無かったはずの店の前に電光看板が置かれていたりする。僕は通帳で、マメに記帳を怠らずにいる。昔から続けている習慣だった。クレジットカードの明細も、紙でできればもらいたい。そんなことを考えていた。テレビでは、地震のニュースが続いていたので、僕は見るのをやめていたのだが、見られていたようなころが懐かしいと思った。僕は24時間テレビを見ていたことがあった。深夜枠では、CMばかりが流れていたが、時間は異様に長く感じられた。まだ駆け出しだった頃のダウンタウンが出ていて、面白かった。でも、確かに存在感のある芸人だとは思ってはいたのだ。途中で寝たような気もする、兄が、近くにはいた。今そんなことをするのは仕事ぐらいではあるが、僕は時間を無駄に使っていたのだろうかと思う。それとも有意義だったのかはわからないのだが。