春の背中で

昔僕は生きていることで、自分が何なのかを知っていたのだ。でも、いつのまにかそうすることを忘れていた。時代の荒波に揉まれていることで、遠くに見えていたはずのものを忘れているのだと気づくこともなく失っていたのである。見ていたものは崩れ、僕の思い描いていたものは未来を夢見ることをそうすることもなく拒ませられはじめていたような気がする。僕はそして、海に立っていることで、そして、見果てぬ向こうにあるものを、想像していたのだ。昼は毎日テレビの前でクッキーを食べていることで美容師に切られた年齢にそぐわないようなカットに目を見張るけれどそのカットはかわいい感じであるとはいえ、長持ちするところが好きだったのである。新卒の頃の会社説明会の席についていた時のようなどこか本来の自分の姿や思いではないような感覚にさせられていた。不確かな何かを、倒れてしまった雪の上からボードに乗ろうとする時に、登山などとは異質な世界である風景に、胸を打たれる、リフトの上から山の中腹で暖をとっている、スキーヤーの様子を見ていた。

今は何も書くことはないと思っている。書くことは実感が必要だと誰かが言っていた。映画か、テレビ番組で見たことがあった、誰かが。本当に昔の話だった。そのことを、言うつもりはなく、そのことを、書くつもりもなかった。冬になるといつの間にか変えられてしまう行動のように。今では、隣町までいつも行っていたサイクリングには気軽には行けなくなっている。そして北風に鼻水をにじませられながら春を待つのみだった。