寒い日の行動
サッカーを昨日のことを考えながら見ている時に、点が入っていたりいなかったりする。サッカー自体には何も問題ないのだが、またあんな場所に出かけてみたいと思う。何も、いた人は僕のことは覚えていないのだろうと思うけれど。今日は外に出ると少しだけ寒かった。明日は、でも、少し温かくなるという。今日の寒さは、治療したばかりの歯に少ししみた気がしたが、来月は寒いのでカーシェアでもして買い物には行きたいものだと思う。そうすると食材の値段を見る意味自体が無くなってしまうのだけれど。僕はどこに行くのだろう。こうしていることは、僕の思っている場所からは遠い気がする、そこは、でも、どこなのかわからなかった。誰かが知っている場所は、でも、近いのかも知れない。今は少し疲れていた、全ては意味を持たないのだというふうに。一つのことは、それを知っている、例えば、壊れたマザーボードのように。どこかの重要な電線の損傷が、全体に影響を及ぼしているのである。それはディスプレイの画面を光らせることはなく、壊れているという事実だけを明らかにする部品でありつづける。そして、マザーボードは壊れているのである。僕は一度そういったパーツを手に入れて、オークションで売った事があるが、もう、同じ失敗をすることはないだろう。同じ失敗を何度も繰り返すのは記憶力が足りないからだ。どこかに出かけようと思う。例えば住みたいと思っている街に。出かけることに理由が必要なのは、多くの場合、楽しむことを拒絶している心にある。