子供の頃の遊び場で

僕は昔はどんな子供だったのだろう。公園を走り回る子供を見ながら考えていた。僕が橋の上から見ていた故郷の小川。友達とでかけた公園。砂場があって、友達と遊んだ滑り台があった。僕は家に帰ると、本を読んだりしていた。テーブルには、お菓子が皿に入っていた。そして、みかんだったり、冬になるとりんごだったりした。tvの中にはさまざまなコメディアンが現れた。僕は時々おばあさんに電話をかけた。ああ、手紙をそして、書いていたっけ。僕は絵を描いてはそれをほめてもらえたのがうれしかった。時々手紙にはお金が入っていた。でも、ファミコンのゲームばかり買っていたっけ…。

ぼんやりとすることもなく近所の公園にでかけた。天気も良かったのに、そこで誰と会うこともないというのは、寂しくて、なかなか酷なものだった…。最近は料理にこだわろうなどということを考えている。成約されたこの環境の中では利口な選択だということは言えそうだった。といっても、パンデミックではなくても実は特に変わらない日常だ。学生や二十歳前後なら、人と関わる機会が多いので、その生活自体が激変していることだろうけれど…。少し公園を歩いてみてもその人々の様子から察するに、危険なほどにはっちゃけているということが目に痛いほどにわかった。

それにしても、ほんとうに不思議な状況だった。デバイスを通じてのみ、いろいろな物事が知らされる状況というのは。それは、今日のオリコンのランキングに似ている。ただ上下するだけの、ラジオやTV、実店舗での実際の売上とはほぼ関係のない情報。聴いたことのない曲の見知らぬタイトルだけが並んでいるようにさえ見える。特にアニメソングや地下アイドルは、知っているものは知っているという、ランキングがその絶対数においてだけで決定しているように見えるのである。それはおそらく曲の善し悪しではないのかもしれない。ただそれは昔もそういった現象はあったわけだが。ただ今は、特にそれが顕著だ。

最近は朝活をはじめた。最近は昔はしていたことが、すでに、おろそかになっていた。昔はしていた仕事に不満を持っていたからできていた。朝5時に起きて、英語を勉強していたのである。ただそれはよく考えてみると悪いことではなかった。現在の状況に不満を持つことは、どのような環境においても、不要なことでは絶対にないのである。