釣りに出かけた日の夜に

誰もいない午後、釣りに出かけた。そして僕は、特に何もすることもなかった。隣に誰がいるというわけでもなく、一人だった‥。僕は、釣り場で誰かに会うのかと思っていたが、しかし、そこには、誰も知り合いはいなかった。いつもと同じ駅で、そして、僕はおりた。時々自分が存在していることを確かめるように僕は、自分の頬に触れていた。そこには、しかし、確かに自分が存在しているのだと言えるような確かな感触はなかった。そして、季節は変わっているというわけでもなく、いつもと同じような平凡な川が流れていた。僕は以前ここに来たときのことを時々遠くを見ながら思い出していた。白い肌の、かわいい女の子を僕が連れてきていた遠い昔の日のこと。それは初夏のまだ、日差しの眩しい日のことだった‥。

僕は部屋ではCDを再生するたびにスピーカーを変えながら聴いていたのだ。そうすることで、自分が孤独な人間であるという気を紛らわせていた。しかしスピーカーがこんなにもリーズナブルに買えるというのは僕にとっては良い時代になったものだと感じさせられていた。僕にとってではなく、それは誰にとってもそうなのだろうけれども。そして米国の大統領の話題でメディアは持ちきりだった。一国の一人の人間のことがここまで話題にされることもその人自身の死を除いては、珍しいものである。

堤防には、寂しい背中の人々が溢れていた。彼らは、アウトレットモールや郊外の観光地に出かけるという選択肢を持ち合わせていない人々なのかもしれない。そして僕はこの川では魚が釣れないということは良くわかっていた。シーバスを釣るということはほとんど運が左右するからである。ブラックバスであればルアーの選び方や季節に応じたパターンなどのある程度テクニックは存在するのかもしれない。僕はそんなことを遠くを見ながら考えていた。そして僕は、自分がここに立っていることによって、孤独を感じさせられていた。

僕は子供の頃を思い出すことがある。友達と自転車で遊びに出かけた寂しげな公園の風景。誰かが泣いたり、陰鬱な朝からのいじめも多かった。スポーツがその原因なのではないかと時々僕は思うことがある。スポーツは個性を認めるようでいて、そこでは誰もが同じであるということを暗に人の心のうちにほのめかすから。何かが流行っては、そして、いつのまにか廃れていった。そして、自転車のカゴにその、いろいろなものをのせて帰った日々。

そんなふうに、過去について思うことはあまり意味がないのかもしれない。現在こそが、未来と過去をつなぐものとして確かに機能するのだから。感覚はそして、そこにあり、芸術について議論を展開することは過去の作品の反芻ではない。芸術は感覚そのものが展開する世界である。それは歴史の教科書のページの話ではない。そして、未来の預言書の断片でもない。数匹の魚が確かに存在する眼の前の障害物に、ややあきらめた顔の釣り人たち。そんなふうに、人が美しいと感じることはとても不思議だ。