
僕は久しぶりに山手線で出かけると、コロナウイルスの影響で、車内は閑散としていた。ぼんやりと原宿で降り、腕組みをするようにして通行人のファッションチェックをしていた。それから、僕の目には公園の集客はなかなかで、閑散とした街とは裏腹に、多くの人でそこは賑わっていると気づかされたのだった。桜はまだ見頃ではなかったので、代々木公園をぶらつくと、こんなにトイレ臭かったかと、それまで訪れていた自分の臭覚を疑った。そして、歌というのは何も意味を持たないというふうに、僕は窓の外を見つめながら東京に来た頃の自分の思いについて考えていた。当時の秋葉原にも新宿にも、まだ歩行者天国があったものだった。そして真新しい高そうなエレキギターを抱えた若者が、演奏もしないのにそこにはいたのだ。当時と比べれば、ギターはあまり歌謡曲に使われなくなったものだったが。
歌というのは、詩や絵画と同じように、世界共通でやられているものの一つ。ただそれをナマコのようにぼんやりと考えると、三味線や太鼓となると、日本独自のものになってくる。それがスネアやエレキギターになれば、世界共通のものとなるのが、皮肉なものであるが。なぜそうなるのか。フランスにはフランスの楽器があり、中国には中国の胡弓といった楽器があるというのに。それがアメリカや英国のものとなると、どうしようもない共通項を持ってくるのである。その前に言葉それ自体がどこから来たものなのかについて、考える必要がある。言語は日常生活のベースとなり、認識や理解を越えたやり方で、人の概念を操る。恐らくその起源は、英国なのではないかということに気付かされる。言語が、英語が共通語だと制定されることによって。僕は中国語が世界共通のものになれば、胡弓がもてはやされることになるだろうと思う。これは一つの、経済政策なのである。我々はその事に気づかなかった。