すれ違う女の子にそっぽを向かれた

妙に寒い道を歩いていく僕は、特に何を考えているわけでもなく。成功した友人のことを考えていたりした。それにしても通りは人間がいすぎて落ち着かない。散歩というよりも、映画のワンシーンの俳優や挨拶回りをしているみたいでいやになってくる。やはり人気のない工業地帯だとかのほうが、危険だが歩くということそれ自体に集中できるような気もする。しかし、まあ、そんな日もあるさと思い直した。でも、こういった住宅街よりも、繁華街の少し路地に入ったような場所の方が魅力的だ。例えば、裏原宿のような場所だとかは、原宿でありながらも落ち着いた寂しさを感じさせるのが不思議だ。そこには人気があっても、どこか影の中に人が潜んでいるような感覚がする。街の中だけではなく県境や、区と区の間に、そういったやや、不思議なエリアは存在する。冷たすぎたのだが、空気は、非常に。そして美味しかった。昼にパスタを作ったら、異様に。入れまくったキャベツの芯。時々友達のことを思い出すこともあるけれど。ベトナムコーヒーを飲む。苦さと甘さの強烈にミックスされた味だった。あとは、特に、何もなかった。この先、誰かに会うことはあるのだろうかと思う。夕方に、ギターを弾いた。特に、意味があるわけでもなく。バンプの曲は、単純なコードだ。その上にメロディをスライドさせているだけのように見える構造。ただ、Bとサビでどうメロディがすすむのかが読みにくいというのがある。それがヒットにつながっているのかもしれない。キャッチーかつ既存の楽曲にないメロの独自性。ああ、こう言う曲なんだということをいつも思わされてしまう。

最近はタラを僕は食べている。佐川で働いていた女の子のことをときどき思う。僕は何度か彼女と通路で話をしたりした。彼女はかわいいGショックをしていたのを覚えている。スパッツのような、太もものラインの出るズボンを履いていた。ただすべての芸術は音楽の状態に憧れるというのは、よく聞く名言だ。では音楽は、どのようなことを表現しているのだろうか。日本においては、クラシック作曲家は皆無と言っても良い状況だ。日本人には表現し得ない崇高な何かを、音楽はきっと、表現しているに違いない。たぶんその見解は、間違っているとは言い難い状況だ。作曲者のほとんどは主に東欧からの出身者が多い。彼らは寒い地域で暮らしていることだけは言えそうだった。そして私が思うに、芸術というものが総じて衝動的で感覚的な産物であるということだ。思考性があまり必要とはされないもの。セザンヌ絵画で言えることが、同様にモンドリアンでも同じであるということが主張できた。逆に思考性の必要とされるものは商業的なものになりがちである。やはりそことの接点を見出すのは個人的な作品のように単純ではない。ただのスタイルの探求の産物というわけにはいかないのである。営業でもデザインでも、商業的なセンスを持った人はどこの会社でも重宝される。ある案件に適したプレゼンをすることによる完成度というのは、確かにあるような気がする…。