
かつて借りまくっていたエロDVDの類を、Gメールで検索する僕。気づけば、便利な世の中になったものだった。あの頃は、あんな女優に興味があったんだ、だとかいうくだらないことを古いアルバムをめくるように懐かしく振り返らさせられている。埼玉で働いていた頃はそれが毎週のようであり、本当に頭がおかしかったものだった。恵比寿から、埼京線で北上していくときの、妙に広々とした電車の中。男と女の織りなす、言葉を交わさない不気味な折衝を、シートの上で赤裸々に見させられていたものだった。なかなか、そんなルートで通う人自体が、レアなのだが。池袋からは、ガラッと雰囲気の違う人が乗り込んでくる電車。最寄り駅を降りると、言い表せないようなボヤッとした退廃的な感情が、性器を中心とした肉体と心の中には、充満していた…。また、絶望的だったのは昼ごはん。どこか生臭いような、人肌を感じさせるような味であり、カラっとした美味しさのあるようなところが、一軒もないのである。道路に転がっていたネズミの死体。道端でヒソヒソと囁かれる変態トーク。そんなものは、朝でも夜でもザラだった感覚がある…。
最近の歌謡曲を聴きながら過去の誰かの影響というのは、わりとすくなくなったものだな、と気づく。昔だったらこれはサザンに似ているとか、ユーミンだとか、そういう暗黙の了解のようなものを確実に感じていたものだったが。世代的に、今の若者はなじみの歌とよべるもの自体、すくないのかもしれない。そういう歌を聞いて、彼らは育ってきたというわけではないのだ。畳の上の叙情性を感覚すること自体がないのかもしれない…。ハートには、どこにも、懐かしさや郷愁といったものが、まっさらに。変化に富んでいて新しくはあるが、板の間の上で極端なスピードで消費されていくような、表面的な音でもある。
夏に流行った曲というのは、昔なら誰もが口ずさみたくなるような、非常にインパクトがあるメロディーや歌詞によるものだったものだけれど…。今はそれもなくなり、夏自体が記憶の中で霞んでしまっている。時の流れ自体を早く感じさせられている、四畳半。便利な世の中になればなるほど、そうなのかもしれない。どこでも、なんでも、欲しいものがほしい時に、安い価格で手に入る。今日、ザラ屋の試着室に並んだのだが、並んだという行為自体が何年かぶりで、非常に新鮮で、フレッシュだった。そこに一緒にいた人や、対応してくれた人だとかの顔ぶれが、目に浮かぶ。
今、僕が渇望しているものとはなんだろう。毎日のようにメシヌキで昼を過ごす頭で、渇望するという事自体を考えてみる。時には何かを失ったり、死を思うほどに肉体的に追い込まれた状況にいたりすると、自分が本当に求めているものがはっきりと見えてくるというのは、リトマス試験紙のようで不気味な現象だった。