
どのようなものを得たとしても、失っていくのだと今は思う。だけど、人がなぜ失っていくものを手にしようとするのかということがわからない。そんなことを考えながら、いつもの路地を今日も隣町へ向かった。景色の中で誰とすれ違うということもなく、陰った目に入るものはなにもない。部屋で昔の雑誌の切り抜きを眺めていたらラブソングの歌詞のプリントが出てきた。そういった時代もあったものだ。通りを歩けば路上ライブに出会わない日は無かった。ワープロで打たれた先輩のクサい歌詞。彼も今では一児の父親さ…。人間同士のプライベートな関係というのも一切なくさせられてしまったけれど、誰が好きだとか、嫌いだとかを、鼻の頭を熱くして言っていたのは、一体いつのことだったのだろうか…。絵を描いていたりデザイン画を描いて、鼻息を荒くして展示していた当時の友達。頻繁に、何かを求めるように海外旅行に出かけていた友人とも、返事も音沙汰も何もない…。彼らがそこで手にしたものとは何だったのだろう。皆結局、パッとした話もなく特に忙しいというわけでもないのは知っているけれど。収入は別にしても今幸せだと思える人はどこにいるのだろう。一線で活躍するような仕事をしている人というのは日本のどこにいるのだろうか。
昔僕は渋谷の専門学校に通っていた…。僕と7個も年の離れた友人と飯を食べたりしていたあの頃。彼に紹介した会社が潰れたのは、それからすこしたってからのことだった…。ただ、それまで彼は実家に引きこもっていた。そんなこともあったけれど、今では独立した彼。そして一児の父親さ…。
最近アンネフランクの日記を読んでいる。数ページ読んでこれはただの日記だと気づかされた。少女の書いた日記そのものなのだ。ランボーのように、文学的に価値があるという類のものでは何もない。今で言う、子供が書いたブログのようなもの。非常にライトな感覚だ。それから、僕が旅行に求めるものとは何だろうと、昔のニューヨークの写真を見ながら考えていた。それは、常に移動し続けることだろうか。景色を移動することで常に新しい経験を得ていくということ。すれ違う人やものの流れを見ることは、美術鑑賞に劣らず、頭の中の知性を刺激されるかのようだ。それにしても僕はこの先十年後、またこの日記を読み直す日が来るのだろうか。その時は体力的にも確実に衰えていることだろう。そして、あの頃は無邪気だったとまた思う日が、くるのだろうか…。