年をとったら笑うだけ

どこかに出かける午後だ。隣にはいない、誰も。自分の中を歩いていくだけのような気がさせられている。土曜日は銀座を歩いていた。sと会うのは久しぶりだ。すでに彼との関係に、未来は見いだせていなかった僕…。今でも交流のある相手は、既婚者ばかり。それは不思議な現象だ。コミュニケーション能力がどれだけ大事なのかということが、街で一人の人間として生きていると、よくわかる…。そして、そういった場所に人は集まるのだろう…。努力や才能があっても、超えられないものというのは確かにある。アメリカによる中国への制裁のような、勇気と決断のようなものが。
二つの展示を見ていた銀座の中。特に記すものもないだろう。誰もが認めるような作品や、映画に、どれだけの言葉を添えればよいのか…。それよりも、難解であったり、気づかれないものに価値を与えたい。つまり、意義があるのは、カズオ・イシグロにノーベル賞が与えられるということだ。ボブ・デュランがもらっても意味は何もない。誰もが認めているものに。そもそも意味はないが、賞になど。
我々は何を信じれば良いのか。そんなことを考えながらスタバに入ると、仕組まれたように若者だらけだった。同じ風景でも、僕の捉え方自体が人とは違っているということの現れなのだろうか…。仕組まれたように、系統の同じ人が車両に乗っていることの不思議。生きることを阻害する要素が確かにあるのだと感じる。別のなにかの要素によるものなのか、それとも、それは僕自身が生み出しているものなのか。朝起きると、元の僕に戻っていて、生きていくことが不安になっている。大それた考えが、正しく修正されている。