尻と胸と街角と

 

僕は誰だろう。通りかかる車に立ち止まっている。そうしているのは、いつものような僕ではない。だから、一人で空を見上げている。今日はといえば…、いつものようにゴハンを食べるヒマもなく。昼ごはんが食べられないのはほとんど社内の慣習のようになっているが、帰りはやけに早かったりする。しかし、能力のある人間がいると仕事は早い。一つのデザインを組み上げるのに、努力や作業は、作り直すことはあれど、実際、さほど必要とはしないのである。また、打ち込むことよりも理論的思考を召喚することのほうが実はけっこう難しい。デザインとは言葉やイラストによるものではなく、図形と色による、抽象的な表象の産物なのである。概念は、言葉を介在させることなく物事を説明するのに役に立つ。例えば、夏のイメージを表すのに、海の図像を用いるということである。また、どこに重点をおいて労力を注ぐのかということを考えるクセをつけるのは、簡単なようだが、多くの人には、よく、わからないものだ…。しかも、広告の中では、それが複雑かつ、多岐にわたって展開するように計画されているのである。

 

自分の子供の趣味に、親も夢中になるということはありえるのだろうか。しかし、奥さんの趣味に自分も合わせるということは、あるのかもしれない。そんな可能性が指摘される。大体、消費文化というのは好奇心のある30代までがメインであり、あとの世代はほとんどメインターゲットにはならない。飲食も、ファッションも、テレビやマンガや雑誌もそう。シニア層向けと言うと、彼らが若かった頃の、リバイバルされた商品がほとんどとなる。なぜかというと、彼ら自身が共通の認識を持つことが難しくなるということが非常に大きい。だから、若い友人や子どもがいるということは、現代の文化といくらかは関わり合いを持つことができるという点で、メリットがあるのだと言うことができるだろう。

 

この日記を書いたのは昨日だったが、今日は、原宿に出かけた。自分がこの先どうなのか、予想することができなかった。公園はいつもの様相で、そして、日暮れでもまだ暑かった。最近僕はELTと宇多田の1STアルバムを聴いた。自分の中に、まだ恋愛をする能力が残っているのかを、推し量ってみたが…。その幻想は実際長時間は持たないのかもしれない。僕は、最近EDMばかりを聴いていた。すれ違う若者は、まだ、時間の猶予の残された晴れた顔で…。コスプレ衣装のような、飾り気の強い洋服を着ている。僕は、引き返そうか迷ったが、supremeへ入る。その服はどれもサブカルチャーのアクが強い。ホラー好きも気になるデザインだろうと僕は思う。

 

僕はそんなことを考えながら、家に足を向ける。何かを買うことは、もう、僕には何も満足できる行為ではなかった。だけど、必要なものは何だろう。若い頃抱いていた自分の理想。月曜日は赤坂のはなまるうどんで麺を吸い上げている僕。人より勝っていることの多くは、虚しい。僕が能力を誇示することでもあるから。では、何のために生きてきたのだろう。僕にとってそれは、自分のしたいことのためだった。社会の中でそれを叶えることの多くは虚しい…。いくら金銭を得ても、ステータスを得ても。会社では結婚するよう、僕は見えない圧力をかけられているわけだが。街やメディアに出る、新しいとされるものの多くは過去にやられたものの反芻でしか無い。真撃な表現の多くは大衆の中で見過ごされ、メディアの力に覆い隠されていることを、僕は知っている。やはりそこに趣向がある人の中にしか、豊潤な表象は存在しないのである。詩的世界というか、彼らが感じたり、頭の中で知っていたりするもの。軽音楽のジャンルでも、そういった流れは広がってきていて、もうすでに、すべてがアングラ化したような感はある。あらゆる人にとって、僕が言うような心の在り方が、ますます重要になってきているのだ。