光を思う

近所の駅は、辺りに何もなく、僕は見ているばかりだった。あるものといえば、マクドナルドぐらいで、いつも人だかりが不思議とできているのだった。何度か食べたが、歯茎から血が出るので、食えたものではなかった。アメリカからやってくるものだが、そこにファンドで投資していたりすると背を向ける意味がよくわからない話でもある。僕は経済システムにとって、悪なのだと思う。でも、遠くの川を眺めているように世の中を見つめて死んでいきたいと、時々思うのだ。

僕は昔は、新宿のタワレコで、無料ライブイベントを見ていた一人だった。でも、そこに今日行っても、覚えている人はいないのだろうけれども。僕は手拍子をしていたりしていた。でも、彼らの売るCDやグッズは、買わなかった。何をあの日々は意味したのだろうかと思うのだ。高かった携帯代を払いながら過ごしていた日々のように思えるのだ。雨に沈む街並みが遠くには見えていたのだ。僕は新宿から渋谷に向かって、秋の道を、山手通りに沿って歩いていたのだ。

人はどこにでかけていくのだろうと思うのだ。でも、なぜ、車は走っているのかと時々思う。便利ではあるが、特に休日は、必要なようには思えなかった。そして、たぶん、平日もそうだろう。必要のないものは必要ではないのだ。それを受け取る側も容認する努力が必要な時代になった。淘汰は進んでいくことだろう。それを受け入れることも、するべき時代になったのかもしれない。