不確かなことを思いながら生活している。週末のゴミ出しに行くときもそうだった。その日は美術館で長時間の映像作品を見ていた。僕は美術作品としての映像作品は嫌いではなく、良く見ることがある。アンディ・ウォーホルの映像作品など。それを見ていた。中の展示スペースの構造も単純に椅子が並べてあるわけではなく、木でできた丘のようになっていて、立体的で面白かった。中には字幕が小さすぎて読めない映像も多かったけれど。その中でもマンションの居住問題を扱っている作品が、ほぼドキュメンタリー的な内容だったのをよく覚えている。一体、このような映像を撮っている人はどのような人なのだろうかと思っていた。それと同時に疲れと眠気を覚えていた。座っている場所の角度によっては見づらい時がある。ようやく映像が一周したのを確かめて、僕は立ち上がる。人影は多くはないけれど、しかし、少なからずスペースの中にはいた。熱心に見ている人もいるようだった。普通のアート作品に比べれば、映像というのは言葉と事物が表出されていることによって、理解しやすい側面はあるような気がした。昔似たようなことを感じたことがあったような気がしたが。そう、コンセプチュアルアートにも同じようなものを感じたのである。いつのまにか閉館間際になっているのに時計を見て気づいた。情報量が増えることで、その作品の理解のしやすさは上がるのかもしれない。シンプルなものを理解することは人は苦手なように思える。理解することは、僕は絵と言葉、音楽などの融合によって優しくなると思うのである。そして部屋を出た。いくつかの感覚と疲労を記憶として反芻することで。
周りには立ち寄るような場所もなく、できてもすぐに潰れていた。不思議なことである。公園だけが、だだっ広く、真冬でも人やペットで賑わっていた。スタバでもあればと思うが、無いというのが特徴的な場所だった。だから館の中でのコーヒーは600円と、足元を見たようなプライスで提供されているのである。缶コーヒーも値上げされるという噂の昨今、この経済状況で嗜好品を値上げしてもしょうがない気もするのだが。