僕と芸術と

誰もが午後の、光。誰かを思う、部屋で。僕は考えていた気がする、生きてきたことを。外に出ると、少しだけ風が冷たい。でも、パチンコ屋の席が賑わっていて、僕の卑猥な施術を受けた泌尿器科の思い出が悲しく闇の中に思い出された。横断歩道への思いと、光。でも、子供と、黒い車。あの中華料理店に行きたいと僕は思う、今も。それから、ホットペッパーをやめてしまった顔なじみの店主のいる理髪店の横を通ったけれど、今年の夏を思い出すと、僕は海に何度もでかけたのだと思う、きっと。そして、そこで見かけた道路沿いの窯焼きピザ屋。結局、僕は食べていない。ああ、きっと食べていたら、美味しかったそれを味わっていたのだろう。

手に、自分とはなんだろうと思っていたけれど、自分ではない、きっと、空間なのだろう。僕は疲れたのだ。ある、一つの、存在であることに。芸術はすでに過去のものである。明日の芸術はあらゆる表現をやられ尽くしてしまったのだろう、たとえ芸術ではない、できあいのものではなくても、きっと。例えば通りかかった船。そして、白い雪。閉店の看板、渋谷の、ドトールコーヒーで。僕は昔、ひとりだったのだ。僕はそこで、テーブルの上に白いノートを広げていた。しかし、いろいろな人が入ってきては出ていったのだろう、現在の芸術を取り巻く現状を、今僕は考えている、イギリスから輸入された思想のようなものを、アメリカからもたらされた借り物の経済構造を、僕のこのコーヒーを飲む、夜に。