冬のどこかで

僕は北風の中を歩いている時には、想像することもなかった。そこで感じ取っているということの他には。今を生きているのだということを確かめるさせられるようにして、流れていく電車の窓を見ていた。同時に、それは、昔の懐かしい景色を思い出させられる時だった。冬は、そして、そんな風にして過ぎていくのだと考えていたのだ。そして、一体、どこにたどり着くのだろうかと思っていたのだ。トンネルの出口の光はまだ見えない。電車は、過ぎていく景色の中でスピードを上げていたのだけれど。

でも、最近は美容室に行くか床屋にするか迷っている。ホットペッパーで予約できるので、美容室の方が楽で、機能的だった。僕は貯めていたポイントも全てそこで消費しているという効率的なサイクルだった。しかし、もう、床屋のほうが良いのではと思うようになっていた。ただ、床屋のほうが料金的には上なのである。そしてそれは、迷うところだった。顔そりはアレルギーなので必要なかったし、待つのも嫌だった。街は、もう、自転車でスーパーに向かうには風が冷たくなり始めていた。どのようなコスパを考えても、車で行くのは、割が合わない用に思える街で、線路脇の誰かが植えた草花が揺れていた。彼らにとっては、そういった、砂利の間などは外的がいないのでフロンティアなのだという。それとも、知らない誰かが手入れをしているのかも知れなかったが。

僕は最近はサッカーを見ているのである。でも、PKが多いのには閉口していまうのだ。それに、ファンタジスタが見たかった。最近のサッカーはそうもいかないのかもしれないのだが。システムが作られすぎていて、ゲームが面白くなくなっているのだ。まるで、オフサイドが無かった頃のサッカーのように思わされていた。そういった堅苦しい状況を崩すのはアルゼンチンのような激しいサッカーなのかもしれないと思うのだ。タックルやドリブルの力によって、相手チームのポジションを脅かす意外性は、現代サッカーに欠けているものを呼び覚ますことだろう。それはマラドーナのように一人で何人もの選手を抜きかわす突進のように、本来のサッカーのあり方を取り戻させることだろう。