この、何も存在しないような部屋でコーラを開けることの意味についてを考える。レモンの香りも辺りに散らばった。全方位戦略を、そこに、意味もわからないままに感じとる。テスラって一体何だったのかと。脱炭素、環境保護とは?そして、そこで、電車の走り去った先には何があるのだろうと思った。子供の頃、いつも、それを見て、思っていたように。自転車で隣町に行くということすらもそれはかなり大きな冒険だったのだ。僕の中でニューヨークのビルを見上げた時のようだった。それはとてつもない高さだったと思う。街は絶壁の下のようにも思えた。アメリカという巨大なシステムが作り上げた、建造物、そして、横にはタクシーが走った。不思議な煙の上がる、街角の側溝、地下鉄からだったのかもしれない。通りで振り返った、僕は日本にいたというわけだけれど。結局何も、AIに聞いても確かなものは得られなかったと肩を落とすように。学者のような気にさせられ、でもそうではなく、賢者のように思わされたが、よく聞くと愚者だった。
そのことを理解しては、ケンタッキーがなんとなく、食いたかった。あまり、体に良い食い物ではない気がしたけれども。鳥自体は健康に良い脂肪ではある。似たようにもも肉を焼いても得られない何かを夢見た。その製法は唐揚げでも得られない不思議なテイストを獲得していたのだ。あれは、一体何なのだろう。それは、坂を越えた街にあったのかもしれない。中には、忘れかけていた揚げ物の姿。クリスマスには、誰もが食いたくなることだろう。それは自分の持つ欲望を満たすのだ。でも、欲望それ自体の消費として。街は、今日も暮れたのかもしれない。二羽の鳥が連れだって飛んでいた、川。どこからやってきて、どこに行くのか。それは、今日もいたのだけれど。
そして、アパートの前の自転車が傾いていたのを直した。あまり冬は乗っていなかった。木の葉が、カゴに少し積もった。たぶん、僕のここで生きた意味なのかもしれない。そうではないとしたら、なんだろう、嗜みなのか。ただ、心を満たしただけの。きっと、90年代のようなカオスな時代はもう来ない。そう思いながらエレキギターの曲を聴いた。正しいことは否定されてきた、誰が何を言っても。あの頃はそんな時代でもあった気がする。どこかに行こう、きっとそこには求めていたものがあると信じているから。