
少しだけ風邪気味かと思いつつ、窓の外を見ていた。僕は時々、故郷の景色を思い出す。子供の頃の、そして、仲の良かった友達の顔などを。僕は、小学一年の頃は万引き常習犯だったということは、親は知らない。そこにいたある友達のことについては、そして、あまり触れないでおきたい。彼と経験したいくつかのエピソードは、今の彼とつながっているのかなと、時々思わされることもあるけれど。彼の家で見たリンクの冒険をクリアしている彼の背中の記憶が、彼との、そして最後の思い出の一つだ‥。確かに、彼の一家は、姉がダンサーであったりと、キラキラした芸能一家の家庭ではあった。それにしても、思い出というは、なぜ鮮明なのだろう。今生きているこの現実よりも、それは色濃く、目の前にある。
僕は小学校で、授業中、色々なことを考えていた。そして、僕の頭は、勉強にはやや不向きのようだった。高校の柔道のときには、運動神経のある人間とない人間の違いを、意図的ではないにしてもまざまざと見せつけられたものだった。逆立ちで数メートル歩行する運動の時にそう思ったのだ。長らく生きていると、自分にできることと、そうではないことが明確になってくる。高校時代というのは、とくに、それが明確になるから、誰もが自分自身から顔を背けたくなるかもしれない。そこに、人気のある人間はいるし、そして、異性にもてる人間とそうではない人間とで、区別がなされる。中学時代などに比べると、非常に冷徹かつ現実的で、それは、ゆるぎ難いものなのである。

ネットワークオーディオについて、最近僕は考えている。ネットラジオやストリーミングサービスが充実した昨今、PCやその他のデバイスから伝達される音は、CDの品質をこえることはできるのだろうかということについてだ。最近、僕も、USBから光に変換するコンバーターを手に入れ、それをプレーヤーからの音と比較し、検証していた。そもそも、すでに比較にはならなかったのだが。おそらく、どのくらい高価なネットワークプレーヤーをかましても、安物のCDプレーヤーの音に勝つこと自体、不可能な話であるということだ。それは、TVが今も確固として存在し続けていることに似ている。しかし、PCの曲を瞬時に探し出せるという利便性は、新しい音楽の楽しみを我々に与えてくれたわけなのだが。特に、あまりにも移りかわりの激しい最近の軽音楽にそこまで興味がないという人は、もっと美しい音で聞きたいと思うことも、多いとは思う。そして僕は遅かれ早かれ、そのように肥大化する現代の歌や曲は、音楽自体の需要の減退とともに、だんだんと廃れていくのだろうと思っている。
