

mac用にタイムマシンを作ろうとしたら、フォーマットがパーテーションだけでは外付けで共存できないらしく、削除にするのに大変だ…。この時期は暖かいが冬よりも乾燥が進むので、アレルギーが痛いのである。そして、スーパーに行くと、セレブ用ではあったが、トレペを見かけた。昨日は多摩川で爽やかな風を受けていた。夕暮れ時に空を見ると、雀ほどの大きさの、コウモリが飛んでいた。カラスがそれを追い払っていた。まあ、あのコウモリがコロナウイルスを持っているとは、考えづらかった。釣り人も多かったが、風があるので、ルアーは距離を稼げない。でも、僕は、特に目的はなかった。ただ歩いていると、菜の花が咲き乱れていた。秋の豪雨もものともせずに、菜の花は咲いていた。自分がいるのだということを、忘れたみたいに。ランナーが走っていた。僕も同じように走っていたことがある。先の見えない時代の中を振り返ることなく、どこにいくのだろう。僕は缶コーヒーを飲み干した。
また、金を使わずに過ぎていく週末。金は、特に、何も、人には与えないのだが。昔ダビングしたビリー・アイリッシュのアルバムを聴く。こんな状況だから、切々と響く歌声ではある。歌声は、僕に何を与えるのだろうということを、ぼんやりと僕の中で、納得のいくまで考えていた。僕は生まれてこのかた、歌を聞かなかった日は、僕の記憶の中では、あまりない気がする。子供の頃のいろいろな街角を、僕は時々、街角の中を歩くようにして思い出している。あたかも歩くようにしていると訪れる様々な発見の中を、ぼんやりと、だがしっかりと歩いていくように。発見は、一日の中では、しかし、あまりないものだが、このようにして日記を書いていると時々見つかったりするものだ。発見をするために多くの人は生きているのかも知れないと思えるぐらいに、日記を書いていると、いろいろなものを、人として客観的に見ることができた。日記を書くことは発見の連続なのである。無数の発見の集積物としての、日記。多くの人は、日記自体を書くこと自体を諦めてしまうだろう。なぜなら、諦めるということ以前に、それは無意味だからだ。
本や日記は頭や、個人の中に内包されているものだという特徴がある。音楽や絵は、本に比べるとわりと開かれたジャンルである。デザイン思考をそういったものを踏まえて考えたときに、社会的でありつつも、それは非常に個人的な行為であるように思える。思うことは、あまり意味がないのだが。デザインは言葉や図形に非常に歩み寄る。出来上がったものはその言葉や図形でもって、普遍的な共通性を確かに獲得している。それは不思議な現象であるようにも思われた。ある現象の表出を、一つの言葉のように、人間は待っているようなフシがある。言葉自体を考えた時、そんなことはどうでも良いのだが。僕は自分が生きることを、やり遂げたいと思う。