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デザインは一定のスタイルを持たず、その時時によって変容していくものだ。そんな事を考えながら、近所のすでに葉桜の桜並木を見ながら僕は歩いていた。八百屋はこの状況だと言うのに盛況で、忙しそうで、うれしそうだった。わりと埃の積もった部屋を、そして、雑巾がけして掃除した。やはりなかなか、最近の僕はといえば正確なディレクションができないでいる…。それは、一口に言っても難しいのだが。例えば、ディズニーの次のアトラクションはどうするのかだとか。それが決まれば、作曲家はそれにそった曲を作るだろうし、イラストレーターは図案通りの絵を描くわけである…。絵や歌にはそれに付随する土台が無いことには、価値を持たないように思えるのは不思議なことだ。どのようなイラストレーションであっても、あるデザインを通してでしか、それ自体がほとんど人の目に触れることは無いということと同じように。
僕は宮崎映画の次作をどのように売り出すかどうかに似た簡単なようだが難しいことばかりを考えていたのである。おそらくは、世に出さずしてわかるのが、そういったことなのである。そして、そこにははっきりとした正解はあるようだった。ディレクションは年に何度でもできるものでもないというのも慣れない点の一つ。頭の善し悪しのようでもあり、どことなく感情や気分によるものでもあるような気がする。できる人には可能で、できない人には全くできない。しかし予算をかけるだけの説得力のあるプランは、そこに無いようではあっても明らかに存在するのである…。そして、そういったイメージを持って指揮をする人間は、デザイン稼業には特に重要なポジションではあるし、希少な存在なのである。ただ、彼らに、個性の違いがあるのかと言われると、わからない部分も多いけれど…。そんなことを考えながら、歩いていた。目黒区のすれ違う人も僅かな土曜日だ。