夜、iPhoneケースを磨きながら

本来、日記は、人に読まれるようなものではなかったはずだった。僕はそんなことを考えていたところだった。それは、気味が悪くても人に受け入れられるような作品を作り続けられるのかどうかということに、似ている。本来、日記というものは私的な行為だったはずだった。今では、ツイッターも、当たり前のように人にはやられてはいるが…。知るべきことと、知らない方が良かったことというのは、確かにある。多様な出会いを、ネットは約束する。それは、しかし、本来意図していなかったところの情報をも容易につないでしまうのである。

それにしても、三ヶ月前のベトナムの記憶も薄らいでいる、昨今。ツアーを入れつつ街歩きを中心として展開したら、今回も東南アジアだったけれども、面白かった。しかし、スリと信号を守らないバイクに気をつけなければならないという怖さが、飯を買いに行くということだけでもそこにはあった。窃盗のリスクはホテル内やコンビニにも潜んでいる。飯は、妙に安いものほど丁寧に作られていて、うまかった。コーヒー、そしてビール。うまく言い表せないが、家庭的なものの良さがあの国には存在するような気もする。中華屋までグラブのバイクでぬるい風を受けながら走っていった思い出。少しだけ運転手と握手するときに見せられたこわばった表情は、やはり欧米人的ではなかった。エビの料理を食べて、僕はホテルに戻った。朝食も美味しかったけれど…。欧州では、食えない鮮度だ。

街の明かりが暗いのは街灯が行き届いていないから。タイとは違うのはサンダルを履いていないこと。自転車を見かけないほど、道がデコボコだった。ハーフパンツにピンクのサンダル。それがタイの女性のスタイルだったのかもしれない…。でもベトナム人のスタイルはバレーボール選手なみで、彼らに負けてはいない…。何もすることもなく深夜、公園にたむろする人々。そこには、よく見ると観光客の姿も潜んでいる様子。物価が安いからあまり働かなくてもやっていけるというような、穏やかな一面もそこには漂っていたのかもしれない。

日本に戻って、考える、日がなAVを見ている時に。そこに潜んだ女優の多様性。その手の店に入れば、一目瞭然だろう。なぜ外国にはその手の興味をそそられるような店が、まるで存在しないのか。そんなことを考えていた。日本ならどこの街にでもあるような歓楽街が、一軒も、そこには存在しないのかを。