
ぼんやりとしていたら僕の休日は終わっていたのだ。誰と、どこで会うというわけでもなく。そして来週は誰かに会えるだろうかなどということを頭の中では考えていて。そうすることで、生きていられるのかもしれなかった。スーパーで、いつもの羊羹を買おうと思ったが、やはりやめておいた僕。だけど腰痛を抱えていた頃は僕にとって梅雨の時期は本当に憂鬱だった。そして、トマトが出回る時期にキャベツを買っても、料理として組み合わせることの、難しさ。意味もなく、ただ、家に帰りたかった。最近の僕は、とても、触覚的だ。事物を見つめることなくそこに存在する意味を心の中で感じとるようにしている。
例えばいくら技術があっても、そこに、閉店に追いやられるような店が存在すること。近所の僕の行ったことのある店もそうだった。味は確かに良かったが…。寂しく閉じられたシャッターは飲食業としての成功は簡単ではないということをひしひしと痛感させられる風景だった。大体、イタリア料理を日本人が頻繁に好んで食べるものだろうか。インド料理もまた、然り。日本人が好きなのは、牛丼、そば、そしてうどん、ラーメン。多額の金を出してまで、高級なものを食べる類の民族ではないはずなのである…。そして、好奇心の旺盛な20代ならともかく、時が経ち、中高年ともなると、まさに体が受け付けなくなってくる。和食を軽視した飲食業としての成功は、そういうわけで、間違いなく難しいのである。
土曜日はいつもの健康診断。休日なので、いつもよりも空いていた…。そして新宿で光線治療をうけたあと、ぼんやりと街をぶらつく。ユナイテッドアロウズやビームスには、ただ、本当に入ることができなくなってしまった…。何もきにせず入ることが若い頃は出来ていたのだが…。GAPなどで買うのもどうなのだろう、とはいいつも、けっこう視線が恥ずかしい。そして通販で最近は仕入れているというわけだ…。zaraであれば返品でも送料は無料なので。gapは、雨宿りで入っただけだったのだが、店員にガッチリマークされてしまい、ズボンを一着買わされた。何も、そこで買おうとは、思っていなかったのだが。憂鬱な気分で探索しておいた昔のAV女優の作品を借りる。ふと、ツタヤのシステムは結構複雑で、メールを見た時に単なる一ヶ月の料金というわけではないということを思い出した。作品は宇多田ヒカル似の、どこか低い声のかわいい感じの子だった…。
そんなことはどうでも良いのだが、しかし最近の東京の企画画廊は六本木に集中し始めている。貸画廊はそして衰退の一途だ。これはつまり世界的な傾向なのだろうか。海外では、というよりもNYをのぞいてあまりそういったスペース自体が存在しない。アートカレッジ自体あまり日本ほどは無いのではないだろうか…。妙なことをしているやつがいるというふうな扱いだ。海外では一体どういった場所からあのような魅力的な作品が生まれてくるのだろうと僕はパリを歩いていて感じた。表現の場所が、何もどこを歩いていても存在しないのである。客車で演説をしていたりする子どもは確かにいたけれど。