今日も街は雨

 

この間、久しぶりにスタバに行ったら老人の人が多かった。私はキャラメルマキアートを手にしながら、そこにいるべきなのか、微妙に感じていた。音楽も、流行りのダンスミュージックだったりする。看板にはストロベリーフラペチーノやライムソーダ。店員もほとんどが、二十代。そんなことを、一人で感じながら、どういった顔をするべきかを考えていた…。内装も、ディズニーランドと親和性がとれそうなデザインだという方が、しっくりくる。椅子が硬いと思われる方も、けっこう、多いのではないだろうか…。そんな私は、20年前にニューヨークのスタバに入ったことがある。高いが、わりと量のあるカフェラテを黒人の店員に渡され、飲んでいたあの日…。場所はアメリカだったからかもしれないが、内装の印象は、マックと大差無いように感じられた。相席でもないのに私の前に座っていた白いtシャツの女の子は表情一つ変えなかった…。

 

電車に乗っていると様々な人を僕は見かける。40~50代の人は、どんな格好をするべきなのかということを考えるのは、非常に悩ましい。どういった服を、どんな年齢の人が着るべきなのだろうか…。今はもう、外に遊びに行かなくなったので、街では、そういった印象ばかりが残る。サングラスをしている人や、髪を染めている人は、40代以降は皆無である…。しかしそれを着ている人もいる。そういった人を、男としてはどう捉えるべきなのだろう。例えば、タイツやブーツ、ミニスカートといった着こなしは、30代以上の人になると、もうすでに、あまり電車の中では見かけないように。そんなことを考えていた。しかし女性の場合は、幅広い年齢に対応したようなブランドが、ありそうなものだが…。私の場合、GUの中で、色味を抑えたものをチョイスするという頓智をきかせている。金銭的に、中年が着るようなアイテムが、街で手に入りづらいというのは確かにある。ユミネやパルコあたりを歩いていると、痛烈に、それを感じる。それは、40、50となると、男性のように、金銭的にたりない場合、ユニクロとGU、無印以外の選択肢が無くなるということを意味しているのだ。そうでもないのかもしれないが。

 

今、新美術館では、クリスチャンという作家の展覧会が開催されているのだ。私はもう、すでに、芸術作品自体を見飽きてきたのだが。そして、私が見たという記憶の中にも作品自体は残されてはいないのだが…。しかし人はなぜ、それを見るためにカネを払うのだろう。記憶に残るものの多くは映像作品や、小説が中心である。そう考えると、絵画や彫刻作品などというものは、現代的な作品の表現方法ではないのかもしれない。私は、20年前、ロンドンのテートモダンギャラリーで多数の有名な作品を見たのだが、そこに行くまでの長い橋の記憶しか無い。バスキアやバンクシーのような、インパクトや仕掛けが間にあったとしても、それを人の記憶に残すことは、絵画は、形式上どうしても難しいのである。

 

昨今の音楽シーン。トップテンやカウントダウンのチャートの信憑性。上位の曲が時代との親和性があるかと言われるとすでに疑問である。歌謡曲が、すでに、消滅してしまった。また、これは世代を超えてそうであると思われるが新しいと思うものは洋楽に限定されるようになった。私はラジオをよく聴いているが…。しかし蓋を開けてみると歌謡曲は、一部の層によるもので、多くの人は歌を聞くこと自体に価値を見出してはいなかった…。昔は洋楽やアニソンが50位以内に入ること自体、本当に珍しかったのだが…。アイドルでさえ、少なかったのである。それぐらい、誰もが、曲を聞くということ自体に夢中になった時代があった。しかし、それは、ほんの一部の層の人によるものだったのである…。漫画にしても、映画にしても、ヒット作が生まれなくなった背景にあるのは、それ以外のものへの興味関心によるものが大きい。多くの人が共有できるような言葉や文化は、もうすでに存在しないのかもしれない…。そして、世間を賑わせたイギリスのEUからの離脱。歌謡曲だけの話ではない。最近は紅白歌合戦によぶ新人にすら四苦八苦している。人はそれ以外のものに力を注ぎ、金もそこへ一気に注ぎ込まれたのである…。結果として、それはヒット作の消滅を招いた。ただそれは、他の何ものでもない、必然性によるものだったのである。