エイドリアンシャーウッド…ピンチ

 

最近色々なことを考えている。たぶん、街がこんなにも僕に何かを与えようとすることは後にも先にも無いだろう。ストレスでもあり、アドバイスのようなもの。同世代の友だちに相談しようとしたが、すでに仲間たちは、街から姿を消していた。どういう意味を、それは持つのか。会話が、人間としての価値が同じでないと成り立たないということかもしれない。いつの世も、歳のいった女性自体休日問わず都心で見かけること自体、かなり稀ではある。しかし、そういった現象が起きるのは、なぜだろう…。恐らくこれは日本のみならず、世界共通で、同じ。特に会社で働いている者には、そういった社会通念が与えるものが、心の中には確かにある。

 

そんな私も、男と女の渦中の中にある。ここは、特に、赤坂だ…。何も、女が幅を効かせない街ではないはずがない。見返りは、どの女を選んでもあまり期待できないと思っておいたほうが良いだろう。そんなことを、最近は悟っている。何も恋愛などしたことのない私が、そんなものは無用のものだったと、今では思える…。そのためだけに、ほぼ、登用されたといっても、過言ではないだろう私。差し出す金や労力を考えたら、美女で若い女の体の魅力も泡のように消えてしまう。出産された子どもに日本政府は金を出せば良い。そしてそれは暗黙の了解ではなく最もシンプルでわかりやすいシステムだ。

 

私は、しかしなぜこんな状況に?キャリアを積んで、もともと、良いところのデザイナーになろうと思っていた。不景気なのか、しかし、受け容れてくれる場所はなかった。なぜか学生時代の女性の多くはほとんどが良いところの事務所に潜り込んでいた。どういった意味を、それは持つのか?誰もが羨むクオリティの高い仕事を、今の会社の女性も、渡り歩いてきたクチだ。そして、私はといえば…。全く、等に及ばないキャリアである。同じ事務所に、そして、今、顔を並べているというわけだ。歴然としている力の差。センスの差こそあれ、しかし、このようなことがなぜ起きたのか?フェアなレースではあまりなかった。そして気づくと、結婚という究極の契約を眼の前に突きつけられている。私にとって社会は優しいものではあまりなかった。この罠にかかるのは、はたして、得策なのか?そんなことを考えている…。

 

この社会が私に与えるものはなんだろう。大きいものとしては一般化だろうか。街ですれ違う人と同じような価値観を持つということ。それは些細なことだが、歳を取るほどに、確実に意味合いを増してくる。