春先の空

少し外に出て散歩すると、冬の間は見ていなかった景色が目に入る。その新しい新鮮さを感じながら歩いた。それと同時に理解しがたい戦争の不安を脳裏に覚えることで。深まる欧米の溝は一体誰が埋めることができるのかということである。この深い川に土砂をいれることに似て、不可能なことのようにそれは思わされる。もう木々は冬の間は無かった、そこに蕾をつけはじめていた。それは見ていなかったものとしての、明らかな変化だ。気づかなかった事象の発見。アメリカには知られていない、戦場の姿でもある。海の大きさは広すぎた。陸の広さもそれには劣らない、知るにも、それを測るにも果てしない距離である。そのようなことを歩きながら今日は考えていた。

水面に存在する波の数を数えることよりもそれは難しい。それとも、それは可能なのだろうか。人知を超えた理解による発想の転換があるのかもしれない。そして東西の戦争の終結と融和への合意が。文化が介在する余地は無いだろう。それは交渉や取引ではなく、ごく普通の、街にありふれたものだからだ。あれほど秋に水面に舞っていた魚は、そこに姿を見せない。でも、水底は冷たいのかもしれない。きっと、水鳥のようにどこかでかたまり、暖を取っている。伺いしれないこの街の未来のように。今日もそんなことを僕は思った。