昔店で買ったCDの記憶
生活の中で見ているもの。聞いているもの。自転車のチェーンが音を鳴らし始めている。原因はわからなかった。サイクルベースあさひに持ち込むべきか。そのことが頭をよぎる。点検されたときに高額なメンテナンスの提案をされるという懸念があった。しかし、それはどのような提案なのだろう。為替相場は祝日であっても容赦なく動き続けている。年末までに予想された円高にふれる日はいつの日になるのだろう。でも、そう遠い日のことではなさそうだった。ただ、円をドルに変えたところで、何が儲かるという話でもなかった。SP500が買えなければ、日経平均の投信を代わりに買えば良いだけの話だった。最近は、全く外食をしていなかった。弁当すらも、食べていなかった。ああいった商品をどうも体が受け付けなくなっていることになんとなく気づかされていた。コスト重視をしすぎて、味もへったくれもないのである。それらは、風味はおろか、塩と砂糖の味しかしないような気がさせられている。卵に至っては、そこには存在しないのかもしれなかった。
記憶に残るものとは何だろう。ユニクロで買った服が、着た数年後に思い出されることはあるのだろうか。ニトリの家具は、メルカリの中で商品力を持ち続けるだろうか。サブスクで聞いたことのある音楽はこの先も子供に歌われるのだろうか。そんなことを考えていた。
冷蔵庫に入れていたサツマイモは気づかないうちに干からびていた。最近僕は古い雑誌やCDをメルカリで仕入れていた。発泡酒で満たされた気持ちを、ビールで否定するかのように。僕はかけがえのない物が欲しかった。光の色ではなく、手に取ることができるようなもの。より体験に近いものを、僕は求めているのだと思う…