ドンタコス一袋の休日

僕は時々何も食べないのだ。そうして、僕は仕事をしている。しかし、ぼやけた意識の中でデザインすると整合性のあるものができることが僕は不思議だ。人間にとって、欲求があることがデザインすることの中では重要なのだろうと思っている。そういったものに駆り立てる、自分の中にある衝動的な欲望が。ただ、何かを欲しすぎると僕はしばしばそれは別の意味を持つことになるのだと知っている。食欲も行き過ぎれば贅沢になるし、性欲も人々の正常な意識を破壊していまう。そういった枯渇したような意識の動きがないことには、人は紙面の中にある隠されたものを見出そうというような気に、果たしてなるものだろうか。なぜなら、虐待を受けたユダヤ人が存在しないことには文学史に残る作品は決して生まれなかっただろうし、科学的な重要な発見もなされなかったことだろう。そんなふうに、自らをあえて虐げられた環境に置くことで、仕事をしている人間を僕は何人か知っている。ライターも漫画家も期限間近にならなければ書くための着想が生まれないのは不思議な事だ。それは、一般的にはあたりまえではないようだが、多くの人にあえてやられないことには、誰にも作品を読まれることはないのだろう。

 

今日もそんなことを考えながら電車に僕が揺られていたこと。一体、この先どうなるのだろう。流れる車窓に見える、点々と灯る街灯の光。僕が遠い昔に営業車を運転していた暗闇の中。あの日アルバイトの取引先の人が、後部座席で何かを話していた。僕の評判は倉庫センターで良くないようだった。先輩のマンションは光が灯っていた。僕は家に帰りたいと心の中では、そこで思っていた。ただ、確か、借りたdvdを先輩は部屋に取りに行っていた。ドンタコスを食べていた休日。何も酒は飲まなかったあの頃。部屋でコーラを、若いのに、飲んでいた。