方向性の無い景色で

午前中から医者に行く必要があったので、寝坊した僕は部屋を飛び出したけれど、暑すぎた。そこは、駅から、やや距離がありすぎるというのがある。熱中症というのはこういうことかと思い、この炎天下の下でフェスを歩き回ること自体が思いやられた。最近考えることがある。この暑さに苦しみを感じさせられるのは気候変動によるものなのか、単純に自分が年老いたからなのかと。しかし、どう考えてみても、最近は暑すぎる。名古屋は普通に40度の予報が出ていたほどである。さらに冷房の効いた店や部屋にいても体的にはけっこうきついというのが、対策にならない点ではある。

盆休みになり、誰もが移動しているようだった。その、思う場所へと。しかし、誰も、立ち止まることすらも忘れて、歩いていること自体を目的にしているようにも見えた。やがてたどり着くことができる場所があるのだろう。本を開くのかも知れないし、望む機械や乗り物を手に入れるのかもしれなかった。時は流れていくのだろう。そして、手や足すらも曖昧にされた季節の中を鳥のように渡っていくのだと思う。

海で泳いでいると、木の匂いがした気がした。近くが森のようになっているからだろう。そのような景色は、思いだしてみても珍しいくらいで、長い浜辺が続いてから山になっているというのが一般的だった。タイの島でも、似たような景色を見たことがあった気がしたけれど。とにかく、海から急に山になっているので、レジャー気分を味わうには良い場所なのかもしれない。人も、休日というのもあって多く押し寄せていた。車が料金の高いコイン駐車場に入れ替わるようにして車が停まり、地主の冬の日の寂しさを忘れさせていた。魚は時々群れをなしていた。時々波の間からその顔を出していた。

株は何も、具体的な方向を示していなかった。未来を読むことは不可能ではあるが、過去を読み解くことはいくらでもできる。投資家はより可能性の高い方へと資金を投入し、可能性の低い方のことについては考えなかった。チャートが急落すると、その衝撃でだれもが全体への意識を失うのが常だ。細かな損失を恐れていては、勝ちは望めない。米国の未来を信じて、ホールドし続けていきたいというふうに、僕は、もう一度思い返していた。