私とよく似た価値の人

昔のことを書こうと思っていると、無印良品のテーブルを見ていて、書こうとしていたこと自体を忘れていた。生きていることは、前を向いていることだというのに、僕は、昔の事を良く思い出させられるのはなぜなのだろうと思う。新卒で入社して、その会社を辞めたあとで引っ越した街で、荷造りを解くのに疲れた僕は駅の逆側にあるボーリング場の中で飯を食べていた。僕はそこで昔の僕のしていたような身なりの、出張中であろう、キャスターを引いたサラリーマンの男を見かけた。その、どこか寂しげだった姿は、何かを語っているようにも見えたが、先にドアの向こうに消えていった。僕はそこで晩飯代わりのジャンクフードを食べた。僕は、でも、安上がりで特をしたと当時は思っていたものだった。明くる日も、上司と似たような顔の男を通りで見かけた。男は意味もなく僕の方を見ているようだったが、僕は職安へと自転車を走らせていて、急いでいた。目を閉じると、そのようなことが、どのような意味を持つのかを、時々思わせられることがある。人生の、ある一定の時間の中で関係した人たちとの縁のようなものは、一体何だったのか。

僕はツイッターで学生時代の部活が与えた影響は、大人になっても大きく残っていると書いたことがある。僕が選んだ部活が違う部だったなら、知りあう人間も異なっていたのだろうという意味で。ドアを開けてスーパーに出かけてきたら、凍りつきそうなほどの寒さだった。クラスも部も違うのに付き合いのあった人間はいないけれど、気が合いそうだった人間というのはいる。でも、何かしらの選択や流れがあって、彼らとは関わりを持たずに時は流れたのである。

木々はもう、葉をつけていることすらも諦めた1月の終わり。交差点から歩き出した人。昼になると、観光客のような姿の人もそこには混じって。僕は2階のスターバックスから通りを見下ろしていた。まだ、ここにスタバができた頃のことを思い出していた。僕の専門学校に通っていた頃、客はサラリーマンや大人ばかりだった。高いコーヒーだというイメージがまだ、定着していた頃、でも、しばらくずっと、そうだった。今では若者が多いように見えるほどだ。色々なものが合理化されて、使う金を持て余しているようにも僕には見えた。海に出ると日は沈みかけている時の美しさ。冬の湘南はもっときれいなのだろうかと思ったりもするけれど、秋に行った時には波はどこか憂いを帯びているようにも見えた。そして、遠く離れた場所の窓から、そこに向かっていくであろう電車を見ている。明日も、僕はきっとそうしているのだろうと思う。