昔の事を時々思い出しながら、ブログの記事を探してみたりする。こういった記録が残っていることは、僕にとっては価値のあることだった。だから、ブログを書いていて良かったと思う。紙として残っていても、それはどこかに行ってしまっていたりすることがあるのだが、残されたデジタルデータにどのくらいの価値があるのかを時々考える。例えば昔のGメールの履歴など。それは消されるべきものなのだろうかというふうに。20年も前にやりとりされたメールの履歴は誰にとっても価値を持たないのかもしれない。それとも、持つのだろうか。データというのは紙で書かれた日記帳とは違って、ボタンひとつで消えていく儚さを持っている、それは形を持つものではあるが、雑誌やCDにも似ているのかもしれない、形は持っているのだが、時間とともに忘れられていくもの。僕は描いていた絵を何枚か燃したことがある。ゴミ収集車がそれらを持ち去っていった庭で、芝を見ていた僕は何を思っていたのだろう。親が、僕の夢中になってそれらを描いていた日、時々をそれを見に部屋に来たりしていたものだった。気がつくと日が暮れていた庭に僕はいた。あの頃三年ほど勤めていた会社を僕は辞めていた。郵便配達が失業保険の書類などを持って、インターホンを押した、よく晴れた日。その会社のことを恨んでいたのだということを思い出す、当時の僕はそうだった。近所の、地元の友人とサイゼリアでご飯を食べて、それから僕は街を出た。
あれから何をして生きてきたのだろうと、コンビニで牛乳を買ってきてから僕は考えていた。2000年代、僕の見ていた景色と思い。会社のロック好きの同僚は、2000年代は何もなかったと言った、レディオヘッドのKIDAがベストアルバムだったらしいのだと。僕にも印象に残ったアルバムは無かった。90年代の華々しい音楽シーンを思いながら、その同僚と竹ノ塚の一角で働いていた僕は500円で豪華なランチが食べられて、良い街だと思っていたけれど、憂鬱な思いを休日は抱えていたのだと思う、北向きの窓の向こうに広がる空を見ながら、時々日差しを求めて外を歩いていた。メールで、誰かとやり取りをしながら。まだ震災で地盤の緩んでいなかった頃の川の道を歩いていた。