生きているという観念
今では誰でもそうしているのかもしれないが、僕は記憶にある街に住んでいた頃からカレンダーはあるサイトからデータをプリントアウトしたもので作成して、使っているのだ。以前は、しかし、無印のものを使っていたが、変にデザインされていないもののほうが使いやすかったのである‥。そのほうが予定を書き込めるし、見やすいし使いやすかったし、そして無料だった。僕は毎年捨てられては新しい紙で変えられただけのカレンダーの風景を見ていた。同じデザインの、日付だけ張り替えられる今年度のはじまりを。どのくらいの種類のカレンダー今は背中にあるのだろうかと考えたりもするけれど。
雨でも、街は今は人が溢れていた。そこで、車を運転することで確かになる感覚を知ることで。季節を思うにも、実際に出ては見るが、多くの人にとって行く場所は限られているものである。雨では、花は誰にとってもあまり意味のないものだった。大人にとっても同じだろう。子供にとっても、同じだった。たとえばキャットストリートの原宿を思い出させられる、イッツマイライフの流れるスーパーの袋入場だとか。何か、歩いていた気がしてはいるのだけれど。どんなことでも他人事ではないのだろう。
ぼんやりと思っている、僕は、通りを。すでに、僕のライブに出かける気持ちはでも、なかった。持っていた不確かな感覚だけが存在している気がする。何か、あきらめに似た撤退するロシア軍に似て、何年も前から疲れていたような気がしているのだった。僕のすべてが終わっていくのだろうと思っているのだろうか。