昔のことを考えながら窓の外を見ていた午後。同じものである景色が、人とは異なる景色に見えていた。子供の頃に見たことのある、ブランコやシーソーなどの、同じ景色を思い出すことで、多くの人の知らない役者や歌手を前にしている時のように。先週はドトールでカフェモカを飲んでいた。モカの生み出す、口の中に広がる甘みと苦味の中で生きていることを確かに実感した。コーヒー豆の中からエスプレッソを抽出しないことには感じ取ることのできない不確かな何かによって。僕はその前にミスドに立ち寄っていた。チェリソがあったのは意外だった。目黒では目にしたことのないチェリソを久しぶりに目の前にし、興奮気味にそれをトングで取った僕は、盆の上にのせた。頭の中にはチェリソのギザギザから生み出される歯ごたえと、コーティングされた砂糖による懐かしい甘さが確かに広がっていた。
それから、通りを歩いていた。遠くに、夕日の沈んでいくカーブしていた道を。駅前にあった地下の食堂には、今も入ることはできるのだろうか。わからなかったが、今、僕は地上で呼吸していることだけは確かだった。僕はこの街に昔は住んでいた。長い距離を、電車に乗って会社に通っていた頃に見た景色を思い出す。僕は、そこで働くことで何をしようとしていたのかが今は不明瞭に思えた。僕は駅前の吉野家で牛丼をよく食べていたものだった。晴れた日には河原で、携帯からメールを友人に送っていたものだった。
空を見上げると、天気は、春の様相だった。中国で行われていたオリンピックは終わってしまった。式で登壇する大統領などの姿を見るたびに、国際関係は緊張しているように感じられる。大戦が終わって、復興がなされた今、新たな緊張が各国の関係の中から生み出されているようだった。それは新型コロナウイルスと同様、人一人にとって、他人行儀では済まされない問題だ。しかし、僕にはなんとなく、人には、その巻き込まれるかもしれない戦争を、あたりまえのように受け入れる準備はできているようにも思えるのだが。