あの頃の相模大野
昔僕は相模大野のアパートで。あれは、いつのことだっただろう。時々僕は外に出かけた。僕の目の捉えていた景色。時々、メールをくれていた学生時代の友人。それから、やめたばかりの会社での出来事を思い出していた。携帯の鳴り続けていた日々の、悪夢のような日々の記憶が続いているように思えていた。しかし、そうではなく、目の前には新しい生活の日々が確かにあったのだ。デノン・マランツの合併会社の横を通る時、teacの小さな修理所があり、そこで修理品を受け取ったことがあり、キャスターを借りて、アパートまで押して行った。公園にいたドッジボールクラブの小学生の姿が懐かしい、プロテクターをつけてプレイしていた男女混合の姿を階段から見下ろしていた。それを見ているのもつかの間、空では爆音を驚かせるジェット機がしきりに往来する。そう、米軍基地の近くだということを知ったのは、賃貸契約を交わしてからしばらくたってからのことだった。その音はものすごかったが、土日や祝日にはぱったりと止んだ。駅前に出ると、小田和正から推薦されたという話の歌手が歌を歌っていた。イベントではなくても、色々な人が良く、我先にと駅前では路上ライブをやっていて、よく僕はそこで足を止めて見ていた。それにしても、環境の悪いアパートだったものである。訳のありそうな、北欧系のカップルもそこには住んでいて、すれ違う時挨拶をしたのだけれども、座間の、大量殺人のあったアパートも似たような環境だったと思う。爆撃機の、ああいった音は人を狂わせる何かが確かにあった。僕は、女に溺れたり、ドラッグに手を出したりすることはなかったのだが。確かに、僕という人間の招きいれられたような場所だったのである。