個性と社会性と

最近僕は、仕事をしながら、昔のことを遠い目をして思い出している。クラスにいた色々な性格の人間たち。そういえば、あまり、そんなものは関係なくなってしまう、中年になると。こいつはあんなやつで、あいつはあんなやつ。子供の頃のように、彼らに会う日はまた、来るのだろうか。なぜ大人になると、何もかも、人は個性を失ってしまうのだろう。解散後は世界をまたぐような目立った活動は見られなくなったビートルズ。自殺してしまう、30代に入る前のロックシンガーも多い。カート・コバーンが生きていたら反社会的な態度で、同じ歌を今も歌うことはできなかっただろうとは思うこともあるけれど。成人を迎えると、十代の頃のようなリアルな言葉は尾崎豊にしてもまるで紡ぎ出せなくなってしまった。無意識的な感覚を超えた理性といったものがそういった人の頭の中には確かに存在するのかもしれない。
社会性という言葉が先程出てきた。金を稼げるということにほかならない、社会性という言葉が。それが金になるうちは、いくら暴力的で中二病的な歌を歌っていても、立派な社会人だと言うことができる。反社会的組織だとみなされてしまう、それが金にならなければ、いくら、高尚な思想を掲げていても。考えてみればそれは不思議なことだ。ただ私的な営みのほうに関心をそそられるものがあるという奇妙な感覚にとらわれる、社会といったものが、幻想にすぎないといったことを念頭に入れて考えると。