
何かを買ったりするということは、映画で作品を見た後のように、特に考えさせられるようなことはないということはなく、それが高価なものであればあるほど、頭を悩ませられたりするものだ。今回のアイフォンの件もしかりで、車や家、カメラも同じようなものかもしれない。逆に、価格の安いものは、具体的な事物として感じられることなく消費されてしまうものだ。どうせ金をかけるなら、高価なもの、豊かな人生を約束してくれるものに使いたい。海外の、より優られた繊維が用いられた生地の服。その凝ったデザインは、着こなすだけでも割と時間がかかるもの。そもそも、着る人を選ぶことだろう。そこにあてがわれたデザイナーも、多くは、輝かしい経歴を持っている。つまりそういったものにポーンと金を出して深く関わることで、自動的に、出し手に、豊かな人生が約束されるということなのである。高価で、最先端のものといえば、今はスマホが挙げられる。兼価版ではなく、より進歩の試されたトップモデルの、テクノロジー商品。最新の、感覚的な新しさが色濃く感じ取れる商品。クルマが、良い一例である。
何も目には見えない概念としてではないという話でもある。昨日、シシャモのライブ映像を見た。写真に撮られることによってではなく、声を出してこそ生きる、愛らしさを感じさせる元気な表情。それは、黄金町や西川口の夜のような、青くて不気味な闇の姿ではない。町興しとして、アートイベントが開かれていたりもするが、そこから遠のいているような観客の姿でもない。例えば、明るい感情が起きにくい、深い憎しみのような、やるせなさを思わせる通りで。
そんな風にして、ソープランドの部屋を思い出す僕は、バスで、それとは無縁な、ベトナム人の若者と話をしていた。といっても、翻訳ソフトを通してだった。英語がどちらも苦手なので、スマホがあって、とにかく便利だった。彼の祖父はベトナム戦争に参加し、北側だったという…。彼がなんとなく裕福そうだったのも、そういった過去の親族の経緯が物語っていたのかもしれなかった。戦争や、フランスの統辞の話にまで話が及ぶと、久しぶりに少し熱くなってしまった…。そして外は、緑色のあぜ道のない田んぼが、どこまでも広がっていた。